描く人ごとに描くたびごとに「へのへのもへじ」の顔が変わるように、作曲家文字絵の顔も変わる。それはタイポグラフィやカリグラフィにおける書体のようなものとも考えられる。Haydnの場合で考えてみる。

論点ないし問題点を未整理まま順不同に列挙する。
(1)類似度----本人に似ているか? ハイドンの写真は残っていないが、肖像画や彫像は残っている。文字絵がそれらと比べて似ているかどうか? (これは、肖像は似ていなければ意味がない、という考え方に基づいた問題意識である。しかし、似ていなくてもよいのではないか、という考え方もありうる。)
(2)飾り書き----カリグラフィの用語でscroll(スクロール)とかフローリッシュ(flourish)と呼ばれる飾り書きをどう考えるか(あるいは、どう利用するか)。飾り書きにより、示差的な特徴が出せることがある。例えば、(C)のリアルHaydnのnの末尾のスクロールによって、かつらの巻き毛を表わすような場合である。このように、飾り書きを何かに見立てれば、類似度を高める技法となることもある。
(3)手心----例えば、hで示されるリアルHaydnの鼻梁に微妙なカーブを加えることにより、ハイドンの鼻らしくなる。下唇を表わすように、普通とは逆方向にyの起始部を丸めるのも手心である。その他、aの楕円部に角を付けることもそうである。
(4)同一性の認知----描線の背後に隠された文字を認識できるか否かに関連した問題である。これには、さまざまな場合がある。
1) 文字絵と知らされないで、→ ただの線画とうけとる。
2) 文字絵と知らされなくとも、→ 背後に隠されたを文字を見抜く。
3) 文字絵と知らされ、 → 背後に隠された文字を見抜く。
3)-1 → 文字と線の対応に納得する。
3)-2 → 文字と線の対応に納得しない。
4) 文字絵と知らされても、 → 背後に隠された文字がわからない。
4)-1 → 説明されても文字と線の対応に納得しない。
(1)〜(4)はどれも定量的に数値で扱えるわけではなく、あくまでもこう感じるとしか言えない問題である。(2)と(3)は文字の変形度に関わり、(1)の類似度との関連で考慮されることが多いであろう。それに対して(4)は、文字絵というジャンルの存立にも関わりうる(この問題は、先ほどの類似度の問題と同様に、似ていなければいやな人やわからない人に対して、さようならと言ってしまえばおしまいになる。つまり、他の多くのことば遊びと同様に、あれこれあげつらう人やわからない人は敬遠しようという話になりかねない。でも、そうはしたくない)。
以上のことを頭の片隅において、(A)(B)(C)のハイドンについて、手短かにご説明したい。まず、(A)はラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの作曲家文字絵ワークシートに用いた絵柄、(B)は缶バッジやTシャツの見本を作ったときの絵柄,(C)はハイドンの顔に写実的に迫ることを試みた際の絵柄である。
h-a-y-D-nの位置関係はみな同じなのだが、顔はそれぞれ異なっている。それは、字形が異なっているためである。上にあげた「飾り書き」や「手心」の有無も、もちろん影響している。他には、yの2ストロークめの違いが目立っている。(A)と(B)では何を表わしているかよくわからなかったのを、(C)では白い襟飾りと見立てた。
(A)(B)(C)を見て想像できることは、h-a-y-D-nの表現形は他にも(D)(E)(F)......と続くだろうということである(実際、無数にありうる)。そのなかで、どれがよいかということになれば、本人に似ているか否かが基準になるであろうということは理解できる。この点が、モデルのある「Haydn」とモデルのない「へのへのもへじ」の違いである。そして、作曲家文字絵シリーズは、モデルとなる人物がいるという点で、今までの文字絵とは決定的に異なっている。
似ていなければ問題にならないとする立場からは,例えば子供っぽい(A)はよくない、という意見も出るかもしれない。しかし、誰でも描ける「へのへのもへじ」を考えればわかるように、私は手描き文字絵の趣旨を、みんなで描いて楽しみましょうということに置きたい。単に作品を享受するだけでなく、気軽に手を動かして描いてみること、そこに一般のアートとは違う可能性が開けると思う。ということで、あなたもHaydnを描いてみませんか?
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