アルプとへのへのもへじ
(文体が変わっちゃってますが、一応昨日の続きです ;^_^ )
思うに、芸術は(というよりも、人間に関わってくることがらは)すべからく意味をめぐる冒険ではないだろうか(およそ人が関わるかぎりあらゆるのものごとは記号化(意味化)する、と考える記号論という学問も、人は意味を求める動物であるという大前提に支えられているのだろう)。
ハンス・アルプの作品のあるものには、そのような、意味を求める人間の傾向というものがはっきりと現われている。それが最もよくわかるのは、例えば「葉-トルソ」、「鏡-葉」、「貝殻-帽子」、「森-帽子」というように、タイトルがハイフンで区切られた、二通りに見える彫刻作品群である。彼は多義性を許容する。というより、多義性を楽しんでいるのだろう。昨日は、そういう意味でダブルミーニングという言葉を使った。
学芸員氏の話によると、アルプは作品を作り始める時に何を作るかを決めておらず、形がだんだん何かに見えてきたらその方向で作品のタイトルを決めたのだそうだ。アルプのように多義性を楽しむというのは私も好きだし、多義性こそ美術を含めた芸術一般の醍醐味なのであろう。しかし、現代美術にせよ、現代文学にせよ、「現代」と名のつくものには、どういう意味を感じるかは最終的に鑑賞者や読み手の判断にお任せします、というパターンが多すぎはしないかという気もする(アルプの場合は、その彫刻が何である可能性があるかをハイフンの前後に明示しているという点で、好感がもてる)。
私どうやら、これはこれこれこういう意味です、と言い切ってもらいたいらしい。つまり、手の内を(もしそれがあるのであれば)明かして、すべてを見せてほしい(子供が手品の種を知りたがるようなものか...。あいまいさを許容できるほど精神が強靭でないのだろう)。いろいろあったけれど、今では、多義性はとりあえずは十分だ、脇においておきたい、と感じている。
あいまいなのは、おもしろいけれど、つかれる。多義的ではないもの、シンプルなもの、見た通りのものに惹かれる。その代表が、私にとっては、「へのへのもへじ」や「ヘマムショ入道」なのだ。息子を騙る詐欺師が横行する世の中にあっては、もし吹き出しがあれば、「見た通りの者です」とでも言っていそうな彼らが、とてもけなげに思えてしまう。
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コメント
はじめまして。
私も文字絵(?)を最近はじめたものでして、たまたま「へのへのもへじ」を検索してたどり着いたしだいです。
シンプルなのに似ているので驚きました!
やはりもともとある顔をみながら描いていくものなのでしょうか。
私も名は体(顔?)を表すをモットーに頑張りたいと思います。
アルプという人は知りませんでしたが、おもしろそうですね!
では、失礼いたしましたm(_ _)m
投稿: としろ | 2005年11月 5日 (土) 02時16分
としろさん、はじめまして。
一概に言えませんが、どんな場合にも、残っている肖像画をいろいろと見比べて、どんな人なのかイメージが浮かぶまで、ながめます。
そうすると、あっ、ここはこの字で行けるんじゃないか、とひらめいたりします。それを突破口に、この部分はこれでいけるかな、などと試行錯誤するわけです(なかなかうまくいかないことも多いですが)。どうぞ、やってみてください。
館林美術館は、湾曲したガラス張りの壁面を通して外が眺められる第一展示室がすばらしいです。第一展示室にアルプの作品が並んでいる様子は、壮観でした。一見の価値があると思います。
投稿: こもへじ | 2005年11月 5日 (土) 10時32分