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2008年1月 7日 (月)

文字絵のトリビア(2): 近衛信尹と小野お通の「人丸」→ 図柄は同じ

 

近衛信尹(このえのぶただ、1565-1614)は寛永の三筆の1人で、京の大文字焼きの「大」の字の元を書いたという説もある能筆(書道の大家)です。小野お通(1567-1631)は今はあまり知られていないようですが、信尹と同時代の人で、やはり能筆の誉れが高かったとのことです。二人とも、安土桃山から江戸初期にかけての一流の文化人でした。この2人は年齢が2歳しか違わず、織田信長の庇護を受けて育った点が共通しています。

 信尹の父親の前久は信長に引き立てられました。父の不遇時代に信尹はまだ幼く、地方で武士の子供と親しく交わって過ごしました。そのため、公家の筆頭の家柄にもかかわらず、生涯武 家に親近感を抱いていたとのことです。元服の日に烏帽子親になった信長とは、最後まで父子同然の親密な関係にあったようです(「三藐院 近衛信尹」p.12)。

 一方、信長に随身していたお通の父の小野正秀は永禄10年(1567)に六條河原の合戦で戦死しました。その時お通は生まれたばかりで、不憫に思った信長が母子を側近において養ったのであろうと推測されるとのことです。お通は信長の庇護下で九条稙通など当時最高級の文化人の教えを受ける機会を十分に得たようです(「小野お通」p.14)。

 実は、この二人の書いた「人丸」の文字絵が残っているのですが、その図柄が同じなのです!!! ということは、近衛信尹と小野お通の間に、何らかの交流があったのではないでしょうか?

 ちなみに、この文章を書くに当たって「三藐院 近衛信尹」と「小野お通」という本を参照しています(三藐院は、さんみゃくいんと読みます)。「人丸」の文字絵の写真がそれぞれの本に掲載されているので、絵柄が同じであることがわかったわけです。

 「三藐院 近衛信尹」にはお通への言及はないようですが、「小野お通」には近衛信尹(号は三藐院)への言及があります。それによると、「能書をもって知られるお通が、三藐院の書をもっているのは自然であろう」とのことです(「小野お通」p.30)。

 さて、それでは、お通の文字絵「人丸」像を模写して、下に示します(絵柄の上には「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」という賛が書いてありますが、それは略しました)。

010708


 

 「人丸」とは、歌の聖(古今集仮名序)と仰がれている柿本人麻呂のことです。出自に謎の多い万葉集の歌人ですが、長くなったので、また、稿を改めます。では、今日はこの辺で。

文献
・『三藐院近衛信尹 残された手紙から』、前田多美子著、思文閣出版、2006年
・『小野お通』、真田淑子著、株式会社風景社、平成二年

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