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2009年4月19日 (日)

岡潔博士の誕生日に童心についての文章に行き当たった

 岡潔という名前は知っていたし、かなり変わった数学者らしいというくらいの雑学知識はあった。きょう4月19日は、その岡潔博士の誕生日だそうだ。MSNのニュースにも出ている。それで、ネットで検索していたら、「松岡正剛の千夜千冊」で『春宵十話』の下の文章が引用されていた。
 鋭いことが書いてある。すごく頭がいい人だなあ、と思う。順序立ててわかりやすく説明されている。明晰。ただ、(たぶん)こちら側の頭の問題として、腑に落とすためには、繰り返し読んでみなければならないだろう。この口述は味読するに足る内容とみた。文字絵の創作とは何かについて考えるのにすごく良いヒントが得られそうだ。余裕ができたら、ぜひ読みたい。「情緒」が大切、という主張にはとてもひかれる。お孫さんの発達過程の観察も興味深い。
 ただ、この2カ月以上、花粉症がひどくて、集中力欠如の状態にありまして...。とりいそぎ、おすすめできる良い文章をみつけました、というご報告まで。(それにしても、「童心の発動」って、いいなあ。いつも童心を発動していると、いったい何が起こるんだろう?)

 (この記事の前と前の前のエントリ、何のことかさっぱりわからないと思いますが、花粉症がよくなったらフォローできるかもしれません。悪しからずご了承ください。)

[引用開始]
 たとえば、生後16カ月の孫が手に何かを持とうとするとき、1つのものを持っている場合は、次のものを持たそうとすると、最初のものを手放してし まうことに気がついた。口の中に何かを入れているときも、次のものは最初のものをぷっと吐き出してからでないと、入らない。これは自然数の「1」の練習で あると思った。
 それまで私は順序数と自然数は似たようなものだろうとタカをくくっていたのだが、順序数がわかってから自然数に進めるのだという見当がついてきた。
 もっと観察していると、自然数の「1」がわかるには実にさまざまな全身での確認をしている。体じゅうを動かして、やっと「1」が手に入るらしい。
 この瞬間に情緒が動いたのである。まさに童心の発動だ。そうだとすれば、この童心「1」がフルに動いて作動した情緒というものを、なんとか子供になっても青年になっても、また大人になっても、作動できるようにすればいい。  私は数学をやってきて、独創というものがつねに「知」と「未知」の“あいだ”にだけおこることを知ってきた。この“あいだ”に行くには、第1には「知」を もっと動ける状態にすることと、第2には「未知」を何かで感じられるようにしておくという、この二つのことが必要になる。 知を動ける状態にしておくのは学者や研究者や思想家の仕事であろう。一方、未知を感じられるようにしておくというと、そんなこと変じゃないか思われるかもしれないが、いや、そんなことはない。変じゃない。道元や芭蕉はそのことばかりに賭けてきた。
  「たとへば東君の春に遭ふが如し」と道元は言った。芭蕉は「梅が香にのっと日の出る山路かな」と詠んだ。ここには情緒だけがはたらいて未知に向かい、大自 然の春や日の出をすっと掴まえている。こういうことは、いくらだってできるわけなのだ。芸術家や表現者はこのような仕事を研ぎ澄ましてきた。 
[引用終了]

あっ、それと、博士はこんなことも述べたそうです。

 「文化というものは理想がなければ観念の遊戯と区別がつきにくい。この理想は一口にいうと、心の故郷をなつかしむというような情操を欠いてはわからない」。

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