2006年9月13日 (水)

放浪と創造と『永遠の少年』

 放浪と創造と言えば、『永遠の少年』を思い出す。『永遠の少年』はユングの分析心理学でいう元型の1つであり、それをテーマとした翻訳書である(紀伊國屋書店、1982年、松代洋一他訳)。著者はユングの高弟(といっても女性)のマリー=ルイーゼ・フォン・フランツで、1970年の著作である。
 永遠の少年とは、「顕著な母親コンプレックスを抱いていて、そこから生ずる独特の行動様式を示す若者」をさす。この元型に同一化した人は、「ふつうよりも長く思春期の心理にとどまっている」(引用は『永遠の少年』から。以下、別途明記してある場合以外、「 」内は同様)。
 永遠の少年は現実から逃避し、真の体験をすることができない。「本来なら現実との適応によってなされるべきことを空想の世界で知的な観念として実現するのである。」彼らはあちこち放浪する。飛行や登山を好む。地面に足がついていない。年をとっても若者の魅力を備えている人もいるが、思春期にはもっていた魅力と個性を失う人もいる。いずれにせよ、永遠の少年という型にはまってしまう。
 ところで、放浪について書こうと思ったのは、『日本人への「放浪」の勧め』という茂木健一郎氏の文章を「読売ウイークリー」の9月24日号で読んだからである。戦後の日本人に創造性が欠けていると言われてきた原因は、個人と組織の関係があまりにも堅苦しくて、創造的になるのに必要な空白を経験する機会をもてなかったからではないかという。そこから放浪の効用が説かれている。
 戦後の日本人には創造性がなかったのかどうか、私にはわからない。工学では、建築では、文学では、科学では、物理では、天文学では、数学では、美術では、映画では、ファッションでは、技術では、造船では、脳科学では、医学では、看護学では、疫学では、統計学では、言語学では、経営学では、商学では、外交では、政治では、マンガでは、アニメでは……? どれ一つとってもまともに論ずるだけの知識も見識もないのでこの辺でやめる。どの国と比べて創造性がないかということもある。それに、そもそも創造性って何だろう? 分野によって違うのだろうか? 戦後の壊滅状態から世界第2位の経済大国になったという事実からして、戦後の日本人は創造性に欠けていたと考えるほうが現実離れしているような気がしないでもない。本当に創造性に欠けていてこれほどの成功を(少なくとも経済的に)収めてきたのだったら、むしろそれこそ驚きである。日本人には日本人の創造性がある、とかいう議論をどこかで目にしたことがあるような気もする。創造性がないのにこれだけの成功を収めたのだとしたら、そもそも創造性なんて必要ないという結論に達する可能性がないとも限らない(まさか……。いけない、いけない。話が脱線してしまった)。
 といったようなことを脇に置いたうえで、茂木健一郎氏の『日本人への「放浪」の勧め』を読み直すと、これは明らかに戦略的放浪の勧めである。功利的放浪の勧めと言ってもよい。ここでは放浪は手段となっている。ぼわ〜っと(というのは私の用語です^^;)放浪した経験が将来の創造の役に立つかもしれないので、イギリスのギャップイヤーのように空白の時期を過ごせる仕組みを設けてもよいのではないかという。
 文部科学省の中央教育審議会生涯学習分科会での報告によると、「イギリスでは、習慣として、大学入学資格を得た18〜25歳までの若者に、入学を1年遅らせて社会的な見聞を広めるための猶予期間が与えられる。
   ギャップイヤーを利用する若者の多くは、高校が終了する6月から大学が始まる翌年の10月までの16か月間のうち、まず5か月間はアルバイトで資金をつくり、5か月間はボランティア活動をし、残りの6か月間を世界旅行をしたり会社で職業体験をしたり等の期間にあてる。大学入学までの猶予期間をどのように使うかは若者次第であり、その選択肢のひとつがボランティア活動である。
   ギャップイヤーの利用者とっては、大学で何を専攻したいかの目的が明確になる等の効果があるとされている。ギャップイヤーをとった若者は、大学を中退する割合が少ない。イギリスでは、大学の途中退学者は20%程度いるが、ギャップイヤーを利用した若者に関しては3〜4%に途中退学者の数が減ると言われている」とのことである。
 こういう慣習があれば若い人には確かに魅力があるだろう。大手を振ってモラトリアムを満喫できる(というような表現にすぐ貧乏性が現れてしまいます^^;)。30年前の日本にこのような制度があれば喜んで利用したかもしれない。今、息子がギャップイヤーで外国へ行きたいと言い出したら、心配ではあるが喜んで国内でも国外でも送り出したい。創造のためか否かにかかわらず、訳のわからないうちに留年してしまうよりはよっぽどいい(我が身を振り返りつつ発言しております)。
 だが、制度的放浪にのれる若者は、たぶんもともとそれほど心配ないのだと思う。本来の放浪には、最初に居た所に戻ってくるという含意はない。つまり、さまよいっぱなしになる可能性が高いということである。この意味では茂木氏が「放浪」とかっこでくくったのは正しい。戦略的に放浪するというのは一種の形容矛盾である。もともと放浪は明るいイメージの言葉ではない。期限を限っての計画的な放浪は、そもそも放浪とは呼びにくい。
 日本のニートやフリーターの問題といってもさまざまな要因が絡んでいるのだろから一概に言えないと思うが、経済あるいはもっと端的には景気が良くなれば(面白い)仕事が増える、その結果、彼らの一部が社員として採用されるということで、問題がある程度改善するのかもしれない。しかし、もともとやる気のあった若者が順当に職を得た後に、残るであろう問題の1つが、たぶん『永遠の少年』の問題なのだ。
 マリー=ルイーゼ・フォン・フランツによると、永遠の少年は「職場に行って、単調な仕事を片づけたり、一人の女性に係わったりするのをいやがるが、それは人生の無限の可能性を心のなかで弄ぶばかりで、そのうちの一つに限定することができないからである。」彼女は母親コンプレックスを抱えた永遠の少年が「時代の問題」として騒がれるようになってきていると言った。何と1960年ごろに!! (『永遠の少年』は1959年から60年にかけての講義の速記録をもとに刊行された。)
 このような永遠の少年が今の日本に増えているとすれば(私は増えているように思うのだが)、ニートやフリーターの問題はなかなか解決しないかもしれない。このような若者たちこそ、身体的にせよ、精神的にせよ、放浪という名にふさわしい状況にあるように思う。そして、たぶん援助の手を差し伸べるべき対象なのかもしれない。
 永遠の少年への処方はずばり、仕事である。「うす暗い雨の朝、うんざりする仕事に無理矢理手をつけ」られるように、自我を十分強化することだ(それができれば苦労しないという声が聞こえてきそうだが)。
 こんなことも書いてあった。「もとより永遠の少年の問題は創造性と密接なつながりがある」。永遠の少年と創造性の問題は、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を材料に詳しく追究されている。『永遠の少年』で最も興味深いのは、『星の王子さま』の分析の部分である。サン・テグジュペリがかなり低く評価されている。今ここでその議論をこと細かに紹介するつもりはないが、私は著者の言うことにかなり納得させられた。したがって、『星の王子さま』を高く評価している文章を読むと、本当にこの人はわかっているんだろうか、などと不遜にも思ってしまう(とは言っても、やはり『星の王子さま』が面白いことは確かなのだが…。個人的には飲んだくれとか点灯夫とかに親近感を抱いてしまう)。
 さて、手短にまとめると、(1)ギャップイヤー的慣習が日本にあってもいい、(2)でもそれでは救えない若者も日本にいるんじゃないだろうか、(3)ニート・フリーターの問題を考えるのには『永遠の少年』が役に立つかもしれない、ということである。
 おまけ: へルマン・ヘッセに『クヌルプ』という小説がある。高校か大学のころに読んだ。クヌルプは若いころの失恋がもとで、漂泊の人生を送ることになる。彼もまた、永遠の少年だったのだろうか?

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2005年10月21日 (金)

笑い転げることをめぐって IV 「生まれてはみたけれど」

 笑い転げた3本目は、小津映画の名作「生まれてはみたけれど」である。これは無声映画で、たぶん初めて行った京橋のフィルムセンターでたまたま見たのだったと思う(弁士もついていたんじゃなかったかな。松田春翠さんだったと思う)。小津安二郎の名前さえろくに知らなかった頃のことで、やはり70年代の終わりくらいのことだったろうか。
 なんと言っても、突貫小僧が最高だった!    お兄ちゃんのまねをしたがる弟を、こんな子いるいるという感じで演じていた。その子供ぶりがとてもおかしかった。最後は二人の兄弟が世の中の仕組みを知ったりして、少ししみじみという感じで終わる。それはそれでよいのだが、笑い転げたという点からすると、「がんばれタブチ君!!」がやはり上だったかもしれない。   コメントをどうぞ

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2005年10月20日 (木)

笑い転げることをめぐって III 「がんばれタブチ君!!」

 子供のときに笑い転げたことが思い出せないと書いたが、物心ついてから、というよりも成人してから笑い転げたことは、少なくとも3回はある。そのうちの1回が茂山千五郎さんの「鎌腹」で、ほかの2回のうちの1回が、いしいひさいち原作の「がんばれタブチ君!!」(1979年)というアニメ映画であった。
 これはもう、衝撃的なおかしさだった。タブチ君がネモト監督やらヒロオカ監督やらヤスダ選手やらオカダ選手やらとからむわけだが、内容はほとんど忘れてしまっても、とてつもなくおかしかったという思いは強烈に残っている。
 どじなタブチ君は、どうしても憎めない(別に憎むつもりはまったくないのだが...。そう言えば、確か高校の修学旅行のとき、どこかの新幹線のホームで本物の田淵選手と間近に接したことがあった。そのときは、この人を肴にしたアニメで笑い転げるなどとは思ってもみなかった)。
 いしいひさいちの4コマ漫画はキャラクターやエピソードがとてもリアルに(ありそうに)描かれていて、ほとほと感心してしまう。
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2005年10月19日 (水)

笑い転げることをめぐって II "laughter yoga"

 しばらく前にテレビの「発掘!あるある大事典2」で見たが、laughter yogaなるものがオーストラリアではやっているそうな。このサイトのBenefitsのページの前文には、
 ...... laughter puts the members in a positive frame of mind and gradually makes them positive thinkers. (こもへじコメント:ふ〜ん、心構えが積極的になるのか...。)
 とあります。その他、見出しを拾ってみると、

Laughter is a Stress Buster
Laughter Strengthens the Immune System

Laughter is a Natural Pain Killer
Laughter Makes You Look Younger
Self Confidence Through Laughter
 などなど。
 ストレスをやっつけたり、免疫系を強めたり、若く見えるようになったり、いいことずくめのようですね。脳内アヘン様物質のエンドルフィンも分泌されると書いてあります。Laughter Therapyという言葉もつかわれていますね。笑うことによりヨガの腹式呼吸になるので、ぜんそくや気管支炎には特に効果があるようです。
 「笑う門には福来る」と言いますが、本当だろうと思います。(それにしても、最近笑ってないなあ。やっぱり、笑わなきゃだめかなあ。) コメントをどうぞ

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2005年10月18日 (火)

笑い転げることをめぐって I 子供のころの空白

 人は一生のうち、何回くらい笑い転げるのだろうか? もちろん、人によって違うだろう。何歳まで生きたかによっても違うし、性格によっても違う。でも、子供は誰だって笑い転げる。サンテグジュペリも言うように、みんな子供だったことはあるから、もう忘れているかもしれないが、私たちも笑い転げているはずである。
 ただ、子供のころ具体的にいつどこで何に対して笑い転げたかについて、私は今すぐには思い出せない(これは、何かを意味しているのだろうか?)。  コメントをどうぞ

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2005年10月 9日 (日)

バッハのマタイ受難曲を歌わなかったことの解釈

 思うに、結果として歌わなかったということは、それだけ強く歌いたいという気持ちがなかったということなのかもしれない。
 あるいは、他にもっと興味を引かれる対象があったということかもしれない(そんなものがあったのかどうか、あったとすればそれは何だったのか?  我が事ながら、そのときどきの詳しい事情は、月日の経過とともにおぼろになってくる)。
 いずれにせよ、たぶん複数の因子の相互作用の結果として私は歌わなかった。それが生きられなかった自分史のささやかな一部ということになるのだろう(う〜ん、我ながら、たいしたことではないことを、ここまでこねくりまわして複雑に小難しく考える癖は相変わらずだなあ)。
 さて、機会があったら、またいつか、心して「マタイ受難曲」を聴きに行こう! 幸いなことに、バッハ先生は、文字絵を通じて、昔より確かに私の身近にいる。

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2005年10月 8日 (土)

バッハのマタイ受難曲を歌わなかったこと

 時機を逃すと、いつかやろうと思っていたことをやらないままにしてまうことがある。根拠もなくいつかはできるだろうと思っていたことが、環境が変わり、自分の気持ちも変わり、いつの間にか関心の焦点でなくなってしまう。しかし、かなりたってから振り返ると、惜しいことをしたと思う。何かのきっかけがあれば、もうちょっとでできたはずなのに。
 私にとって、「マタイ受難曲」を歌うこと(もちろん、合唱団のベースの一員として)は、そんなことの1つだった。ヘルムート・リリングが来日してこの曲を指揮したときに聴きに行った。思えば、あのころがこの曲に最も気持ちが向かっていた時期だったのだろう。

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2005年9月23日 (金)

アンパンマンあんぱん

 汐留・日テレプラザ『アンパンマンテラス』の前にアンパンマンあんぱんの車(名前があるのかもしれない)が止まっていた。その車にアンパンマンの「スペシャルセット」が外から見えるようにディスプレイされていた。
 6個のセットになっていて、内容は、あんぱんまん(あんぱん)、ばいきんまん(チョコパン)、メロンパンナ(メロンパン)、ドキンちゃん(イチゴジャムパン)、カレーパンマン(カレーパン)、しょくぱんまん(フレンチトースト風)だそうだ。
 
ドキンちゃんがイチゴジャムパンなのには、何かいわれがあるのだろうか?    それはさておき、これは人気があるだろうなと思った。キャラクターの魅力は、やはりすごい。夜も遅くて閉まっていたので買えなかったが,私も欲しくなった。パンを同じ材料で作るにしても、うれしいし、楽しい。こんなところにも生きている喜びは感じられるものだ。  コメントをどうぞ

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2005年9月19日 (月)

チェリストならば、ナヴァラ! {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 9}

 チェリストならは、アンドレ・ナヴァラ!  得物かかえてさっと登場、演奏済んだらささっと退場。'70年代、都市センター。演目、バッハの無伴奏。 朗々たるかな、その音色。
 こちらの感動をよそに、為すべきことを為して「はい、さようなら」。このチェロの巨匠は大リーガーに近かったのかもしれない。
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2005年9月 2日 (金)

Your Arms Too Short to Box With God {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 6}

 まず、タイトルについて。間違えて、Our Hands Too Short to Box With Godと記憶していた。今回、インターネットで検索してみてOur Hands......の形では1件もヒットしない。たぶんいつの頃からか、勘違いしてしまったらしい。なぜだろう?  それはともかく、このタイトルは、「神とボクシングするには腕が短すぎる」という意味である。
 本題に入る。このGospel musicalは、今までに見た舞台のなかでも特にすばらしかった。自分の属している文化(日本)とは明らかに違うものがそこで展開されていた。俳優の存在感がすごい。とりわけJesus Christ の精悍な男優が印象に残っている。この観劇は、タングルウッドでのトホホ体験に先んずること10日くらい、1976年夏のフィラデルフィアでのことであった。
 まず、歌って踊れるというのはこういうこと、という見本がそこにあった。どちらも半端ではない。若かったのでその時までにいろいろな舞台を見たというわけでもなかったが、その後もこれほどダイナミックなダンスは見ていない。
 そして、エンターテインメントと融合した信仰。世界のどこでもそのような形の信仰はめずらしくないだろうが、ゴスペルの場合は魂の叫びといった激しさがある。もともと奴隷から解放されることを願う黒人の間で始まったとされているから、切実な心が表現されるのは当然だろう。歌で、ダンスで、その心が表現される。Jesusに救いを求める気持ちが自然に観客の行動に現れる。それで、舞台の進行とともに観客は大いに盛り上がる。クライマックスでは総立ちである。もちろん私も立って手拍子を打ちまくった(けっこう乗りやすいのです)。
 観客は私を除いてすべて黒人だった。私はその中の誰一人として知らない。周りの人たちからは場違いな黄色人種がいるとみられていたかもしれない。そんなことは誰も気にしていなかったのかもしれない。いずれにせよ、私はその場の熱狂的な盛り上がりを楽しみ、劇場と一体となり、忘れがたい一夜を過ごしたのだった。
 話がそれたが、言いたかったのは、「自分が周りと違う」ことが一見してわかるという体験ができた点でもこの観劇は貴重だった、ということである。異質なものに触れることは自らを振り返るきっかけとなる。この日の経験からばかりではないが、アメリカをバスで横断する4週間ほどの旅の後、私は日本の文化に興味を持つようになった。
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2005年8月31日 (水)

ヴォイストレーニングの快感{RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 5}

 人の声は美しい。男声合唱を経験してわかった。女声も美しいのだろうけれど、混声合唱を経験した後でもやっぱり男声がいい、などと思ってしまう。
 合唱に興味があった訳でもなかったが、誘われて大学のグリークラブ(男声合唱団)に入った。練習は昼休みに毎日、さらに週3日は夕方からもあった。たいていヴォイストレーニング(発声練習)から始まる。それが私はけっこう気に入っていた。
 声を出すのが気持ちよかったのである。体が共鳴している感覚が好きだった。夕方からの練習では、ヴォイストレーナーの先生をお招きして、一人一人かなり本格的に指導していただいた。何も経験がないところから始めて、声がだんだん響くようになると、ヴォイストレーニングが楽しくなった。
 よい声、響く声を出すためには体を鍛えるようにと(主に先輩から)指導されたのは意外だった。それをまじめに受けとって、腕立て伏せをけっこうやった。運動ばかりでなく、声楽でも体が資本なのである。基本的には体が大きなほうが、響く声が出せる。ただ、それが筋肉質の体でなければならないかどうかは別問題であるが(声のためには、食べ過ぎて太ったのだって、やせているよりは有利だ)。
 より響く声を出すために「軟口蓋をもっと上げろ」が合い言葉だった。よく響く声でハモること、それが目標の1つであり、グリーメンにとって大きな充実感の源だった。純粋かつ単純であった。あのころが今、なつかしい。
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2005年8月29日 (月)

興福寺北円堂の無著・世親像 {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 4}

 言葉もない。すごすぎる。それなのに、のどかだ......。興福寺の北円堂を初めて訪れたとき、そんなふうに感じた。
 国宝である運慶作の無著・世親菩薩立像がそこにおわしますことは、まったく知らなかった。順路と思って、たぶん国宝館から北円堂に向かったのだと思う。そして、忘れ得ぬ出会い。無著が兄で世親が弟(兄弟にしては似てないな)。二人のリアルさ。木肌があらわであるにもかかわらず、本当にこんな人がいそうだな、とつい思ってしまうその圧倒的表現力(といっても、二人ともインドの人なので、日本人のように見えるのは本当はおかしいのだが)。こんなのを作るのは、ほとんど人間わざではないと思って、見入ってしまった。もう二十何年か前の話だ。
 その日は春の一日でぽかぽかしており、お堂の回りには草が生い茂り、石壇にはなぜかカマキリがよじ上って、うろうろしていた。「おい、カマキリ君、きみも精が出るねえ」と声をかけたいくらいだった。「でも、ありがたい仏様なんて、てんで眼中にないんだろうね!」
 今、この二尊が「興福寺国宝展」で仙台を回っておられる。またいつか、奈良でお二方にお目にかかりたい。無著・世親はやはり北円堂に限ると思う(弥勒如来様、ごめんなさい。お弟子さん方のことばかリ話題にしてしまいまして......)。
 行かれる方へ: 今年は秋に特別開扉があるそうです(10/29から11/13)。
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2005年8月28日 (日)

ロンドンのファン・エイク {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 3}

 トラファルガー広場に面したロンドンのナショナル・ギャラリーで見た絵の1枚が、けさ、NHKの「新日曜美術館」取り上げられていた。
 ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」である。学生時代に最初にこの絵を見たとき印象に残ったことは確かである。絵はがきを買った。しかし、そのとき説明のパネルを読んだとは思うが、何のことについて描かれた絵なのか頭に入らなかったし、この絵がとりわけ気に入ったというわけでもなかった。正直に言うと、冷たそうな顔の男がいて、女性のおなかが膨らんだ変な絵、そんなふうに感じたような気がする。
 けさの説明では、この絵は「結婚の秘跡」を示したものとのことであった。イコノロジー(図像解釈学)の提唱者として有名なエルヴィン・パノフスキーが1953年にそういう説を唱えて、それまで説明できなかった絵柄を統一的に解釈したそうだ(例えば、脱いだくつ、女性の足下の犬などによって)。
 おなかが膨らんでいるのは当時の単なるファッションだそうである。知らないととんでもない誤解をしてしまうことがある、というよい例であろう。
 その他にも、この絵は視線が3点に収斂しているという東京芸術大学の先生の新しい見方も紹介されていておもしろかった。今晩、8時から再放送があると思うので、興味のある方はどうぞ。
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2005年8月27日 (土)

アンサンブル・タッシ/世の終わりのための四重奏曲 {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 2}

 アンサンブル・タッシの「世の終わりのための四重奏曲 」(メシアン)の演奏を聴いたのは、東京池袋の西武デパート、12階の西武美術館においてであったような気がするが、定かではない。パイプ椅子を並べた、にわかごしらえの演奏会場だった。武満徹の企画した「今日の音楽(ミュージック・トゥディ)」の'70年代終わりごろの演奏会だったかな...。どこかにパンフが残っているように思うけれど、おぼろげな記憶に頼って書いているので、データが間違っていたら、ごめんなさい。
 「世の終わりのための四重奏曲 」は、メシアンが第2次大戦中、ドイツ軍の捕虜だった時に作曲され、収容所の中で初演されたという。タッシはこの曲を演奏するために結成されたとのこと。
 ピーター・ゼルキン(ピアノ)、リチャード・ストルツマン(クラリネット)、アイダ・カヴァフィアン(バイオリン)、フレッド・シェリー(チェロ)というタッシの4人のうち、最初の3人は印象に残っている。特に最初の2人は演奏していたときの、表情や体の動かしかたまで覚えている。リチャード・ストルツマンは体全体で表現していた。確か自由席だったので、いちばん前の席で聴いていたと思う。
 すごい熱演だった。圧倒的な迫力だった。特に、ストルツマン。こりゃあ、レコードとほとんどそっくりじゃないか、というのが正直な印象だった。お手並み拝見いたしました、という満足感というか充足感というか....。その日の演奏を、すべてを汲み尽くしてしまったような、という趣旨の言葉で評していた人がいた。その批評の正確な言い回しは忘れたけれども、確かにそんな演奏だったように感じた。
 音楽を聴いて、ただただ心から感動するということは少ない。この日の演奏もすばらしかったけれども、感動したというのとは違う。でも、確かに満たされて会場を後にしたのだった(タッシというのはチベット語かなにかで、「幸福」という意味だったように思う)。
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Tanglewood, August, 1976 {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 1}

 Tanglewood (タングルウッド)にはようやくたどりついた。いちばん近いグレイハウンドのバス停から森の中の舗装された道路を歩くこと数キロ(だったと思う)。ボストンのデポでそこへの行き方を尋ね、バス停からかなり歩くことは聞いていた(と思う)。バスを降りて歩き始めて、右か左か、どちらなのか迷ったこともあった(ような気がする)。そんなこんなで、心細い道をとぼとぼ歩いて、ようやくたどり着いたクーセヴィツキー・シェッド。ちょうど、いまごろの季節だった。
 ところが、なんとバッハの「マタイ受難曲」は終わりがけであった。せいぜい最後の20分か30分が聴けただけだったように記憶している。雲はちらほら漂っていたものの、空は青くて天気はよかった。まわりの芝生には人がごろごろ横たわり(これが、受難曲を聴く態度?)、鳥はさえずり(音楽にはじゃまと感じた)、小澤征爾指揮するボストン交響楽団と合唱団は、はるか彼方に小さく見える。音はよく聞こえてこない。一言でいえば、私のTanglewood体験はトホホであった。
 夏の避暑地でなぜ「マタイ受難曲」なのか、その理由はパンフレットか何かで読んだかもしれないが、今は忘れてしまった。アメリカ建国200年祭と関係があったのかもしれない。何せアメリカは、宗教的理念で建国された国だから。
 教訓 : 旅行者としてツアー以外でタングルウッド音楽祭を訪れるのなら、タクシーないしレンタカーをお薦めします。
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