放浪と創造と『永遠の少年』
放浪と創造と言えば、『永遠の少年』を思い出す。『永遠の少年』はユングの分析心理学でいう元型の1つであり、それをテーマとした翻訳書である(紀伊國屋書店、1982年、松代洋一他訳)。著者はユングの高弟(といっても女性)のマリー=ルイーゼ・フォン・フランツで、1970年の著作である。
永遠の少年とは、「顕著な母親コンプレックスを抱いていて、そこから生ずる独特の行動様式を示す若者」をさす。この元型に同一化した人は、「ふつうよりも長く思春期の心理にとどまっている」(引用は『永遠の少年』から。以下、別途明記してある場合以外、「 」内は同様)。
永遠の少年は現実から逃避し、真の体験をすることができない。「本来なら現実との適応によってなされるべきことを空想の世界で知的な観念として実現するのである。」彼らはあちこち放浪する。飛行や登山を好む。地面に足がついていない。年をとっても若者の魅力を備えている人もいるが、思春期にはもっていた魅力と個性を失う人もいる。いずれにせよ、永遠の少年という型にはまってしまう。
ところで、放浪について書こうと思ったのは、『日本人への「放浪」の勧め』という茂木健一郎氏の文章を「読売ウイークリー」の9月24日号で読んだからである。戦後の日本人に創造性が欠けていると言われてきた原因は、個人と組織の関係があまりにも堅苦しくて、創造的になるのに必要な空白を経験する機会をもてなかったからではないかという。そこから放浪の効用が説かれている。
戦後の日本人には創造性がなかったのかどうか、私にはわからない。工学では、建築では、文学では、科学では、物理では、天文学では、数学では、美術では、映画では、ファッションでは、技術では、造船では、脳科学では、医学では、看護学では、疫学では、統計学では、言語学では、経営学では、商学では、外交では、政治では、マンガでは、アニメでは……? どれ一つとってもまともに論ずるだけの知識も見識もないのでこの辺でやめる。どの国と比べて創造性がないかということもある。それに、そもそも創造性って何だろう? 分野によって違うのだろうか? 戦後の壊滅状態から世界第2位の経済大国になったという事実からして、戦後の日本人は創造性に欠けていたと考えるほうが現実離れしているような気がしないでもない。本当に創造性に欠けていてこれほどの成功を(少なくとも経済的に)収めてきたのだったら、むしろそれこそ驚きである。日本人には日本人の創造性がある、とかいう議論をどこかで目にしたことがあるような気もする。創造性がないのにこれだけの成功を収めたのだとしたら、そもそも創造性なんて必要ないという結論に達する可能性がないとも限らない(まさか……。いけない、いけない。話が脱線してしまった)。
といったようなことを脇に置いたうえで、茂木健一郎氏の『日本人への「放浪」の勧め』を読み直すと、これは明らかに戦略的放浪の勧めである。功利的放浪の勧めと言ってもよい。ここでは放浪は手段となっている。ぼわ〜っと(というのは私の用語です^^;)放浪した経験が将来の創造の役に立つかもしれないので、イギリスのギャップイヤーのように空白の時期を過ごせる仕組みを設けてもよいのではないかという。
文部科学省の中央教育審議会生涯学習分科会での報告によると、「イギリスでは、習慣として、大学入学資格を得た18〜25歳までの若者に、入学を1年遅らせて社会的な見聞を広めるための猶予期間が与えられる。
ギャップイヤーを利用する若者の多くは、高校が終了する6月から大学が始まる翌年の10月までの16か月間のうち、まず5か月間はアルバイトで資金をつくり、5か月間はボランティア活動をし、残りの6か月間を世界旅行をしたり会社で職業体験をしたり等の期間にあてる。大学入学までの猶予期間をどのように使うかは若者次第であり、その選択肢のひとつがボランティア活動である。
ギャップイヤーの利用者とっては、大学で何を専攻したいかの目的が明確になる等の効果があるとされている。ギャップイヤーをとった若者は、大学を中退する割合が少ない。イギリスでは、大学の途中退学者は20%程度いるが、ギャップイヤーを利用した若者に関しては3〜4%に途中退学者の数が減ると言われている」とのことである。
こういう慣習があれば若い人には確かに魅力があるだろう。大手を振ってモラトリアムを満喫できる(というような表現にすぐ貧乏性が現れてしまいます^^;)。30年前の日本にこのような制度があれば喜んで利用したかもしれない。今、息子がギャップイヤーで外国へ行きたいと言い出したら、心配ではあるが喜んで国内でも国外でも送り出したい。創造のためか否かにかかわらず、訳のわからないうちに留年してしまうよりはよっぽどいい(我が身を振り返りつつ発言しております)。
だが、制度的放浪にのれる若者は、たぶんもともとそれほど心配ないのだと思う。本来の放浪には、最初に居た所に戻ってくるという含意はない。つまり、さまよいっぱなしになる可能性が高いということである。この意味では茂木氏が「放浪」とかっこでくくったのは正しい。戦略的に放浪するというのは一種の形容矛盾である。もともと放浪は明るいイメージの言葉ではない。期限を限っての計画的な放浪は、そもそも放浪とは呼びにくい。
日本のニートやフリーターの問題といってもさまざまな要因が絡んでいるのだろから一概に言えないと思うが、経済あるいはもっと端的には景気が良くなれば(面白い)仕事が増える、その結果、彼らの一部が社員として採用されるということで、問題がある程度改善するのかもしれない。しかし、もともとやる気のあった若者が順当に職を得た後に、残るであろう問題の1つが、たぶん『永遠の少年』の問題なのだ。
マリー=ルイーゼ・フォン・フランツによると、永遠の少年は「職場に行って、単調な仕事を片づけたり、一人の女性に係わったりするのをいやがるが、それは人生の無限の可能性を心のなかで弄ぶばかりで、そのうちの一つに限定することができないからである。」彼女は母親コンプレックスを抱えた永遠の少年が「時代の問題」として騒がれるようになってきていると言った。何と1960年ごろに!! (『永遠の少年』は1959年から60年にかけての講義の速記録をもとに刊行された。)
このような永遠の少年が今の日本に増えているとすれば(私は増えているように思うのだが)、ニートやフリーターの問題はなかなか解決しないかもしれない。このような若者たちこそ、身体的にせよ、精神的にせよ、放浪という名にふさわしい状況にあるように思う。そして、たぶん援助の手を差し伸べるべき対象なのかもしれない。
永遠の少年への処方はずばり、仕事である。「うす暗い雨の朝、うんざりする仕事に無理矢理手をつけ」られるように、自我を十分強化することだ(それができれば苦労しないという声が聞こえてきそうだが)。
こんなことも書いてあった。「もとより永遠の少年の問題は創造性と密接なつながりがある」。永遠の少年と創造性の問題は、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を材料に詳しく追究されている。『永遠の少年』で最も興味深いのは、『星の王子さま』の分析の部分である。サン・テグジュペリがかなり低く評価されている。今ここでその議論をこと細かに紹介するつもりはないが、私は著者の言うことにかなり納得させられた。したがって、『星の王子さま』を高く評価している文章を読むと、本当にこの人はわかっているんだろうか、などと不遜にも思ってしまう(とは言っても、やはり『星の王子さま』が面白いことは確かなのだが…。個人的には飲んだくれとか点灯夫とかに親近感を抱いてしまう)。
さて、手短にまとめると、(1)ギャップイヤー的慣習が日本にあってもいい、(2)でもそれでは救えない若者も日本にいるんじゃないだろうか、(3)ニート・フリーターの問題を考えるのには『永遠の少年』が役に立つかもしれない、ということである。
おまけ: へルマン・ヘッセに『クヌルプ』という小説がある。高校か大学のころに読んだ。クヌルプは若いころの失恋がもとで、漂泊の人生を送ることになる。彼もまた、永遠の少年だったのだろうか?
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