チャイコフスキー
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見たことがないのに、目にするとなつかしいと感ずるもの…、それは文字絵。ココログで「へのへのもへじ」を検索してかわいい文字絵を見つけ、そんなことを考えた。モーツァルトや作曲家たちを初めて見たテレビ埼玉のコメンテーターからも、「なつかしい」とのコメントをいただいた。感情を司るという大脳辺縁系に関係しているのだろうか…。とりあえずそれはさておき、なつかしいと感ずる理由を考えてみた。
それはたぶん、子供の時に感じた全能感を思い出すからではないだろうか。字をかけるようになることはうれしい。絵を描くことは楽しい。自分が線を引いて絵が描けるという感覚。しかし、字と絵は本来異なるジャンルに属していて、遊びであるということは子供心にもあまりにも明らかだ。だからこそ、その遊びのなかで自分が創造主となって、世界を作り上げているという満足感。つまり、文字絵はそのような子供時代の全能感の心地よさをなつかしく呼び覚ましてくれる。
散文的な仮説だが、そんなところかもしれない。小学校唱歌のようななつかしさに少し近いかもしれないけれど、管理されていないという点では文字絵は大いに違う。例えば、歩道に蝋石で落書きするのは、管理を離れた開放感がある。だから、おなじ「なつかしさ」といっても、文字絵には「えへっ」とか「フフッ」とかいういたずらを見つけられたような、それで肩をすくめたような、何というかちょっと照れくさいところがある。文字絵を描いている時、人は心理的に自分に正直に、そして無防備になって、絵を描く楽しみに没頭する。要するに、無邪気な楽しみにふける。自分にも無邪気に楽しめたころはあった。日本人の多くがそのように感ずるのではないだろうか。
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モーツァルトさん、初めまして。アマデウス・ブログを毎回、楽しみに読ませてもらっています。
わけのわからない上司をもつと、大変だよね〜。でも、大司教コロレドさんはわかりやすいほうじゃないかなあ。権力があると威張りたくなるのは人の常だからね。中にはもっと下っ端なのに、もっと陰険なのもいるよ。ぼくも何人か経験ずみさ。
結局、ウィーンでの自立を決断したんだって。すごいね。フリーでやっていくのはきついと思うけれど、君ほどの才能があればきっとうまくいくよ。でも、お金をもらうって大変なことだから油断しないでね、とチョッと先輩風を吹かせておこうかな^^。
ところで、君のブログの右上に掲げてある肖像は、確か24、5歳のときのものじゃなかったかな。先月から気になって見ていたんだけど…。実は、ぼくはけっこう君のファンなんだ(といっても、きょうのバイオリンソナタは初めて聴いたけどね^^;)。
それで、秘かに君の似顔絵を描いたりしている。それも、ただの似顔絵じゃない。ひとたび描くと署名にもなるという優れもののアルファベットの文字絵だ。描き方はここにある。君の門出を祝って、ひとつそれを君に贈ろうと思う。受け取ってもらえるとうれしい…。では、また。 こもへじ
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大修館書店の月刊『言語』1984年4月号の特集は「文字へのいざない」で、そこに興味ある記事を見つけた。以下に引用する。
...(前略)中勘助は『銀の匙』で、
平仮名の「を」の字はどこか女の坐った形に似ている。私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの「を」の字に慰藉を求めていたので、彼らはよくこちらの思いを察して親切に慰めてくれた。
と人目を離れて〈を〉の字を落書きした子供の頃を書いている。アルファベットいずれかの文字の姿に慰藉を求める子供が欧米にいるかもしれない。
これは「文字の遊び」と題する郡司利男先生の文章の一節である。日本には文字を人に見立てる文化が確かにあった。例えば、「乃」の字を杖をついた人に見立てて「杖つきの乃」と呼んでいた。『銀の匙』の「を」の中勘助の場合も、そういう伝統に連なっていたのかもしれない。『銀の匙』には「ヘマムシ入道」も出ているので、これは文字絵関連の文献として貴重な本だと改めて思った。
そう言えば、山東京伝の『奇妙図彙』に「をいらん」というのがあった。そこでは、「を」は女の人の結った髷に見立てられていた。中勘助の場合は坐った女の形というから、髷ではなさそうだ。
ところで、郡司利男先生のおっしゃるように、アルファベットの文字の姿に慰藉を求める子供は欧米にもいるのだろうか。欧米とはいわず、今の日本ではどうだろう。古今東西の文献をあたれば、似たような感性を見出せるのかもしれない。でも、アルファベットを書く欧米の人を何人か見たことがあるが、カナ釘流の字が多かった。アルファベットの1字を何かに見立てて慰藉を得ることがあるようには思えない(と言っては失礼であろうか)。いずれにせよ、書くことによって落書きでもわずかな慰藉が得られれば小さな子供には十分なのだろう。だからこそ日本では「へのへのもへじ」が今もどこかで書かれていることになる。
そう考えると、「慰藉」というのは文字絵にとって一つのキーワードになるかもしれない。はやりの言葉で「癒し」と呼んでみてもよい。「癒しの文字絵」、う〜ん、なかなかいい。こういうふうに個人的な「慰藉」や「なつかしさ」の感情が28億円のブランクーシに対抗できる点だと思う(この件はまた別稿で)。
ということで、そういう「癒しの文字絵」の例をここで紹介いたしましょう! これは2004年の東京都文京区の第55回絵画展で奨励賞をいただいたこもへじの作品であります。絵解きは後日ということで、きょうはコメントなしで絵の写真のみをアップします。そうそう、タイトルは『文字絵ごくらく大温泉』です。
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小学1年生のころ、ひらがなを習ったとき、うすくグレーで書かれたひらがなをなぞったことはありますよね。そんな感じでなぞって練習するワークシートです。適当に何回かアルファベットをなぞってトリケラトプスを描いたら、あとは紙に自由に描いてみましょう。このワークシートは一種のお手本のようなものだけど、あなたのトリケラトプスには、きっとあなただけの筆跡が感じられるはず......。
と(T)げじゃない! り(ri)っぱな角で ceratops と唱えながら描いてみてください。ceratops (ケラトプス)のところが少しいそがしいけれど、Tとriでゆっくりめに時間をかけてかっこいい角を描いた後に、一気にささっとやっつけよう!
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(LDP=驚動) 17日午前10時ごろ、もじえ王国最大のテーマパークであるクラシックパークに突然ティラノサウルスが現れ、「文字絵の夏」音楽祭開催中のロイヤルフィルハーモニーホールに乱入した。オープニングコンサートで演奏されていた第九交響曲は中断され、オーケストラと聴衆は緊急避難した。その際、ごくらく温泉館の串だんごじいさんが頭に軽傷を負い全治3日間のけが。このティラノサウルスは中フェルマータ山のふもとにある時空のトンネルから飛び出してきた、という未確認情報も寄せられている(もじりアート)。
第九交響曲を指揮していたベートーベン氏の話: とんでもない奴だ!! 焼き鳥にしてやる!! 赤ワインに合うかもしれん!!
文字絵研究所こもへじ所長の話: どうやら漢字が好物のようです。今のところ漢字と見れば見境なくかぶりついています。画数の多い漢字をみつくろって餌付けできそうですが、危険ですからできるだけ早くどこかへ引き取ってもらいたいですね。
もじえ王国に現れたティラノサウルス。急激な成長期にあるらしく、漢字を食べ続け、見る間に体が大きくなっている。
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きょう自動車を運転していたら、FMラジオから聞いたことのある曲が流れてきた。リストのピアノ協奏曲第1番のおしまいのほうだった。その後には巡礼の年第3年の「エステ荘の噴水」。残念ながら「噴水」の途中で駐車場に着いてしまい、一時の涼は消え失せた。どうしようか迷ったが、野暮用で急いでいたこともあってそのままリストさんとはお別れした。
これは、一種のシンクロニシティだろうか(緩くはあるが)。シンクロニシティ......共時性と訳されているユングの分析心理学の用語で、意味のある偶然の一致という意味である。この2週間くらいリストのことを考えていた。実は、7月31日はリストの命日で、その日にリストの絵描き歌をブログにアップしようと思っていたのである。しかし、テレ玉の放送の後で何だか力が抜けてしまって、のびのびになっていた。
ということで、シンクロ二シティの話はまたいつかすることにします。きょうはリストの絵描き歌をどうぞ。
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アクセスカウンタ設置記念プレゼント第2弾です。制作したての生誕250周年記念のモーツァルトの特別なシールを差し上げます(といっても、こちらを先に差し上げることになるのですが)。まだ、世界にこの1シートしかありません。神童時代の6歳のモーツァルト、ヴェローナでの15歳ころのモーツァルト、そして晩年の33歳ころのモーツァルトの似顔絵シールが1シートになっており、長径が70ミリ、短径が30ミリの楕円形です。Mozartの顔については、こちらの記事をどうぞ。
ゲットのルールは次の通りとさせていただきます。
ルール: 当サイトへのアクセス時にカウンタが250となったことに気づかれた方は、その時点で最も新しい記事に、「250番をゲットしました。」 とコメントを入れてください。その際、連絡先のアドレスを教えていただければ、こちらから送り先確認のご連絡をさせていただきます。また、250をわず かに越えているのに最新の記事に250番ゲットのコメントが入っていないことに気づかれた方は、カウント数が「250番を越えて×××になっていますよ。」と、コメントにてお知らせください。その方を当選とさせていただきます(まれに、同じカウンタの数字が2回以上現われることもあるようなので、最初にコメントをいただいた方を当選とさせていただきます。)
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「ハイドンは、(1)鼻が高くて (2)あいそよく (3)やさしいうえに (4)大作曲家 (5)なのである」と唱えながら描いてみてください。
日本語で口調がよいのは五七調あるいは七五調ですが、この例では、ハイドンから音を数え始めると「五七五七七五」となっています。実際に描き始めるのは2句目の七(「鼻が高くて」)からです。初句の「ハイドンは」で、誰の似顔絵なのかをイメージします。このときに、これからハイドンを描くぞ、と思い定めて勢いをつけるとよいでしょう。
各句の最初の文字は、鼻、あ、や、大、な、です。それぞれの最初の音をローマ字で表記すると、ha、a 、ya、da、naとなります。さらに、それぞれの1字めのアルファベットをつなげるとhaydn、すなわち、ハイドンのアルファベットつづりとなります。これは折り句という和歌の技法に近いのですが、五十音をさらにローマ字表記に分解して、その最初のアルファベットを採る、という点が違います。このような少し回りくどい縁故の設定のしかたを「ローマ字折り句」と呼んでおきます(ちょっと理屈っぽくなっちゃいましたね)。
Haydnの文字絵も「ローマ字折り句」も、ハイドンをちょっと理想化しすぎているかな、とも思います。でも、ハイドンは日本ではあまり人気がなさそうなので(「音楽之友」2006年7月号の人気作曲家のアンケートでは、20位以内に入っていません)、判官びいきをしちゃいます。では、また!
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長らくブログを休んでおりましたが、きょうからラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンが始まるのを期に、また書き始めたいと思います。まず、ご報告が遅くなりましたが、残念ながら今年は文字絵研究所はラ・フォル・ジュルネでワークショップを開かないことになりました。やらないと決まったからには、大いに楽しもうと思っています。
文字絵に関しては、Mozartで新作を、というより、いわば改作を試み、モーツァルトの生涯をたどる似顔絵ができました。今日はそれをご紹介します。まず、これを見ごらんください。
これについては、メディカル・サイエンス・インターナショナルの麻酔科医向けのLiSAという雑誌の4月号に、次のような紹介の記事を書かせていただきました。まずはその記事を引用して、ブログ再開のウォーミングアップとさせていただきます。
LiSA 2006年4月号 "from LiSA"用原稿
「へのへのモーツァルト」
■「ほんとうの音楽を弾いてくれたまえ、モーツァルトの音楽を! …..」死の床のショパンは友人たちにそう頼んだそうです。今年は、「最も偉大にして最も神的な天才」(ワーグナー)と讃えられているモーツァルトの生誕250周年にあたります。1月27日の誕生日をピークに、昨秋から世界各地でさまざまな記念行事が開催されています。
そこで、モーツァルトのとっておきの似顔絵をご紹介しましょう。基本的な考え方は、「へのへのもへじ」という文字絵における線画描法を、Mozartというアルファベットに応用してみようということです。例えば、
[ 図(A)入る ]
これは、ザルツブルクのモーツァルテウム所蔵のヨハン・ネポムク・デルラ・クローチェによる「モーツァルトの家族の肖像」を参考に描き起こした文字絵です。この油彩の斜め正面像は24歳ごろのモーツァルトの風貌をよく伝えているとされています。次は、神童モーツァルトです。
[ 図(B)入る ]
左からそれぞれ、ピエトロ・アントーニォ・ロレンツォーニ作(6歳ごろ)、1777年の未詳の作者、チニャローリ作(15歳ごろ)の肖像を参考にしました。絵の下にMozartの各文字の変形ぐあいを示しました。平面におけるアルファベットの配置が同じでも、少しずつ手心を加えて文字を変形すると顔が変わってきます。
最後は、モーツァルトの義兄ヨーゼフ・ランゲによる未完の肖像画をイメージした横顔の文字絵です。ランゲの肖像はモーツァルトが33歳ごろの作とされています。
[ 図(C)入る ]
参考文献として、「モーツァルトの肖像をめぐる15章」(高階秀爾著、1995年、小学館)と「モーツァルト頌」(吉田秀和他編、1995年、白水社)をあげておきます。また、http://mojieken.cocolog-wbs.com/ld/ で文字絵による他の作曲家の似顔絵が、ご覧いただけます。どうぞ、お楽しみください。
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(文体が変わっちゃってますが、一応昨日の続きです ;^_^ )
思うに、芸術は(というよりも、人間に関わってくることがらは)すべからく意味をめぐる冒険ではないだろうか(およそ人が関わるかぎりあらゆるのものごとは記号化(意味化)する、と考える記号論という学問も、人は意味を求める動物であるという大前提に支えられているのだろう)。
ハンス・アルプの作品のあるものには、そのような、意味を求める人間の傾向というものがはっきりと現われている。それが最もよくわかるのは、例えば「葉-トルソ」、「鏡-葉」、「貝殻-帽子」、「森-帽子」というように、タイトルがハイフンで区切られた、二通りに見える彫刻作品群である。彼は多義性を許容する。というより、多義性を楽しんでいるのだろう。昨日は、そういう意味でダブルミーニングという言葉を使った。
学芸員氏の話によると、アルプは作品を作り始める時に何を作るかを決めておらず、形がだんだん何かに見えてきたらその方向で作品のタイトルを決めたのだそうだ。アルプのように多義性を楽しむというのは私も好きだし、多義性こそ美術を含めた芸術一般の醍醐味なのであろう。しかし、現代美術にせよ、現代文学にせよ、「現代」と名のつくものには、どういう意味を感じるかは最終的に鑑賞者や読み手の判断にお任せします、というパターンが多すぎはしないかという気もする(アルプの場合は、その彫刻が何である可能性があるかをハイフンの前後に明示しているという点で、好感がもてる)。
私どうやら、これはこれこれこういう意味です、と言い切ってもらいたいらしい。つまり、手の内を(もしそれがあるのであれば)明かして、すべてを見せてほしい(子供が手品の種を知りたがるようなものか...。あいまいさを許容できるほど精神が強靭でないのだろう)。いろいろあったけれど、今では、多義性はとりあえずは十分だ、脇においておきたい、と感じている。
あいまいなのは、おもしろいけれど、つかれる。多義的ではないもの、シンプルなもの、見た通りのものに惹かれる。その代表が、私にとっては、「へのへのもへじ」や「ヘマムショ入道」なのだ。息子を騙る詐欺師が横行する世の中にあっては、もし吹き出しがあれば、「見た通りの者です」とでも言っていそうな彼らが、とてもけなげに思えてしまう。
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