2005年10月17日 (月)

大蔵流十ニ世茂山千五郎の「鎌腹」{RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 16}

 私は狂言が好きで、狂言を見るために能楽堂に通っていたことがある。古文はなかなか読み進められないが、狂言の登場人物の言っていることはほとんど問題なく理解できる。そして、おもしろい。何百年も前の中世の庶民の気持ちが今の時代に生きている自分によくわかって思わず笑ってしまう、というのはけっこうすごいことだと思う。いずれにせよ、深読みせずに楽しく心から笑える時間がもてることは、貴重である。狂言もまた、日本が世界に誇るべき芸能の1つであることに間違いない(というより、これ以上笑える伝統演劇って、どこの国を探してもなかなかないのではないかな)。
 さて、本題に入りましょう。今まで、私がいちばん笑ってしまったのは、大蔵流十ニ世茂山千五郎の「鎌腹」であった。何の屈託もなく心から笑ってしまった。あんなに楽しく笑ったことは、今までの人生を振り返っても数回しかない。その数回中でも最も清々しかったのはこの時だった。それほど心地よさを感じたのは、屋外のさわやかな夜気に触れていたことにも大いに関係していた。芝の増上寺の薪能を見ていたのである。
 ところが、ここでちょっとしたミステリーが発生した。増上寺の薪能の歴史を見ても、千五郎さんの「鎌腹」が出ていないのである。う〜ん、としばらく考え込んでしまったが、説明の冒頭で、「昭和49年に大殿を復興し、......これを機に、能楽堂の歴史をもつ増上寺でたびたび薪能が演ぜられるようになった」とあるから、第1回の前に何回か、カウントされていない薪能が催されたのだろう。いろいろな状況を勘案してみると、私が増上寺で「鎌腹」を見たのは、昭和52年前後のころではないかと思われる。
 「鎌腹」というのは千五郎演じる怠け者の亭主に愛想を尽かした妻が、鎌で腹を切ると言う亭主の意気地のなさを最後には見抜いて、舞台の袖に亭主をわわしく追い立てて退場するというお話。登場のしかたからしてそうぞうしい狂言であったが、千五郎さんはとても楽しそうに演じていて、その楽しさがこちらに伝わって来た。最初から最後まで、笑いっぱなしに笑ってしまった。
 その後、千五郎さんは人間国宝となり、四世茂山千作を襲名して今でもご活躍中のようである。
 追記: ちなみに、その日演じられた能は「葵の上」でした。     コメントをどうぞ

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2005年10月16日 (日)

俳優座の「ジュリアスシーザー」{RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 15}

 1977年1月に、東横劇場で俳優座の「ジュリアスシーザー」を見た。訳は小田島雄志。タイトルロールは川原崎次郎。「ジュリアスシーザー」とは言うものの、実際に目立ったのはアントニーとブルータスである。仲代達矢がアントニー、加藤剛がブルータスを演じていた。
 この劇はもともと、この二人の対立が目立つようにできている。第三幕の二人の演説にそれが端的に示されている。シーザーにとどめを刺したブルータスが最初に、その次にアントニーが追悼演説をする。ブルータスの言うことだけを聞くとローマ市民もシーザーには殺される理由があったと思うのだが、そのすぐ後にはアントニーに扇動され、ブルータスをはじめとする暗殺者らを血祭りに上げようとする。
 アントニーの演説の前後の市民の心の変わりようはすごい。人は何と他人の影響を受けやすいことだろう。大勢の意見になびくのは、まさしく群集心理である(当然、観衆もローマ市民と同じ心情を抱くことになるかもしれない。しかし、そこが微妙なところで、加藤剛は二枚目であるので、なぜか善人にみえてしまったりした。そもそも、ブルータスは高潔の士なのだろうか?)。
 その後、ブルータス・キャシアスらの元老院派とアントニウス・オクタヴィアヌス連合軍の闘いはアントニウス側の勝利に終わる。そこに至るまでの、ブルータスとその妻の会話が、しみじみとした愁嘆場に聞こえてしまったりする。 
 スターの共演ということもあり、当時は話題となった公演であった。後年外国での上演を見た時に比べると全体にテンポが遅い感じがして、せりふ回しが日本調になってしまうところは確かにあったと思うが、Et tu,  Brute! で有名なこの劇は初見で,迫力もあっておもしろかった(特に,二陣営の対立が)。  コメントをどうぞ

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2005年9月 2日 (金)

Your Arms Too Short to Box With God {RETROSPECTIVE COMMOHEDGE 6}

 まず、タイトルについて。間違えて、Our Hands Too Short to Box With Godと記憶していた。今回、インターネットで検索してみてOur Hands......の形では1件もヒットしない。たぶんいつの頃からか、勘違いしてしまったらしい。なぜだろう?  それはともかく、このタイトルは、「神とボクシングするには腕が短すぎる」という意味である。
 本題に入る。このGospel musicalは、今までに見た舞台のなかでも特にすばらしかった。自分の属している文化(日本)とは明らかに違うものがそこで展開されていた。俳優の存在感がすごい。とりわけJesus Christ の精悍な男優が印象に残っている。この観劇は、タングルウッドでのトホホ体験に先んずること10日くらい、1976年夏のフィラデルフィアでのことであった。
 まず、歌って踊れるというのはこういうこと、という見本がそこにあった。どちらも半端ではない。若かったのでその時までにいろいろな舞台を見たというわけでもなかったが、その後もこれほどダイナミックなダンスは見ていない。
 そして、エンターテインメントと融合した信仰。世界のどこでもそのような形の信仰はめずらしくないだろうが、ゴスペルの場合は魂の叫びといった激しさがある。もともと奴隷から解放されることを願う黒人の間で始まったとされているから、切実な心が表現されるのは当然だろう。歌で、ダンスで、その心が表現される。Jesusに救いを求める気持ちが自然に観客の行動に現れる。それで、舞台の進行とともに観客は大いに盛り上がる。クライマックスでは総立ちである。もちろん私も立って手拍子を打ちまくった(けっこう乗りやすいのです)。
 観客は私を除いてすべて黒人だった。私はその中の誰一人として知らない。周りの人たちからは場違いな黄色人種がいるとみられていたかもしれない。そんなことは誰も気にしていなかったのかもしれない。いずれにせよ、私はその場の熱狂的な盛り上がりを楽しみ、劇場と一体となり、忘れがたい一夜を過ごしたのだった。
 話がそれたが、言いたかったのは、「自分が周りと違う」ことが一見してわかるという体験ができた点でもこの観劇は貴重だった、ということである。異質なものに触れることは自らを振り返るきっかけとなる。この日の経験からばかりではないが、アメリカをバスで横断する4週間ほどの旅の後、私は日本の文化に興味を持つようになった。
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